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諏訪 頼重(すわ よりしげ)は、戦国時代の武将。信濃国の戦国大名。諏訪氏の第19代当主。諏訪頼隆の子。宮増丸。刑部大輔。上原城城主。諏訪大社大祝(おおほうり)。武田勝頼の外祖父にあたる。 == 生涯 == 永正13年(1516年)、諏訪頼隆の嫡男として生まれる。幼少時には大祝を務めた。のちに大祝職は弟の諏訪頼高に譲っている。 父の頼隆は天文8年(1539年)12月9日に死去し、頼重は祖父の頼満から後継に指名され、諏訪家の家督を継ぐ〔「神使御頭之日記」『山梨県史』資料編6下(県外記録)所載〕。諏訪氏は頼満・頼隆の頃に甲斐の武田氏と抗争し、反武田氏の国人衆と結び甲斐国内へ侵攻していたが、天文4年(1535年)に信虎と頼満は和睦し、天文9年(1540年)11月、武田信虎の三女・禰々を娶り、武田家と婚姻関係を結んでいた(『神使御頭之日記』)。天文11年(1542年)には嫡男寅王が生まれている〔「守矢頼真書留」『山資』6下所載〕。天文10年(1541年)5月13日には信虎・村上義清らと連携して小県郡に侵攻し海野氏一族と戦い〔『神使御頭之日記』〕、5月23日には海野平の戦いで海野棟綱を破り上野国へ追放している〔「高白斎記」『山梨県史』資料編6上(県内記録)所載、「蓮華定院文書」『信濃史料』2所載〕。 同年6月に甲斐では武田信虎が駿河へ追放され嫡男武田晴信(信玄)が国主となり、晴信は信濃侵攻を本格化させ諏訪郡への侵攻を開始する〔晴信初期には信虎期の佐久・小県への侵攻から路線を変更し同盟関係にあった諏訪郡への侵攻を行っているが、その背景には海野平合戦で追放された棟綱が上野国において関東管領の上杉憲政に支援を求め、7月4日には憲政は佐久郡へ出陣すると頼重は武田・村上に無断で憲政と単独講和し所領を分割しており(『神使御頭之日記』)、晴信はこの盟約違反を理由に諏訪侵攻を行ったと考えられている(平山優『川中島の戦い』)〕。晴信は6月、諏訪惣領を志向する伊那郡の高遠頼継ら反諏訪勢と手を結び諏訪郡への侵攻を行い、上原城を攻められた頼重は7月に桑原城で降伏した後、弟の頼高と共に武田氏の本拠である甲府に連行され、東光寺に幽閉された後に自刃する〔『高白斎記』、『守矢頼真書留』〕。頼高も自刃し、諏訪惣領家は滅亡した。 武田氏は信濃支配において一族に信濃諸族の名跡を継承させ懐柔を行う方策を取っており、諏訪氏においても信玄の四男で諏訪御料人との間に生まれた勝頼が諏訪姓を名乗り名跡を継いでいるが、これは名目的なものであると考えられており、系図類では歴代に数えられていない。大祝職は叔父諏訪満隣の家系が継承し、満隣の子孫は近世に中興され大名となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「諏訪頼重 (戦国時代)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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